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主要な価値創造モデルとその評価(76):戦後日本のドル収入最大化モデルー22

 わが国の戦後復興と高度成長を支えたのは、安価で豊富な労働力と1ドル=360円の安定的なブレトンウッズ体制でした。このうち労働コスト面の優位性は、1970年ごろには消失しました。しかし前回示した企業の収益性推移の対象に取った1070年から90年にかけての20年は、わが国のマクロ経済ならびに日本企業の経営に関して黄金期と言える20年間だったのです。そこでこの20年間がどのような時代だったのかを、簡単にレビューしましょう。
 まず、第2次大戦の覇者として世界の政治、経済をリードしたアメリカの地位の低下です。戦後極めて順調に成長してきたアメリカ経済が、1960年代後半に変調をきたし始めます。ケネディー大統領の下で自信に満ち溢れて始まった1960年代のアメリカですが、彼が暗殺されその後を継いだジョンソン大統領の下で、ベトナム戦争が泥沼化していきました。一方では、「大砲もバターも」というモットーの下で、福祉政策にも積極的に取り組んだのです。この結果、アメリカの財政収支、国際収支共に急速に悪化して、今日まで続く慢性的な赤字体質が定着しました。経済は過熱し、完全雇用状態の下で、インフレ、高金利が深刻になっていきました。
 ジョンソンのあと大統領になったのは、共和党のニクソンでした。国際収支の悪化を反映してドルの基軸通貨としての信認が揺らぎ始め、ニクソンはついに1971年に金とドルの兌換の約束を放棄したのです。これによって戦後の安定的な国際金融体制を支えた固定相場制の土台が崩れ、1972年には全面的な変動相場制に移行していったのです。
 こうして幕を開けた「激動の70年代」ですが、ついでイランにおける宗教革命に伴って、73年と78年に世界的な「石油危機」が勃発しました。イランを含む中東の石油にエネルギー源の大半を依存していた我が国の経済は大打撃を受け、経済も企業経営も大混乱に陥ったのです。エネルギー価格は高騰し、諸物資は払底し、激しい物価変動や金利の高騰に見舞われました。
 しかし日本は官民一体になってこれらの国難に耐え、艱難辛苦を重ねて、何とか乗り切ったのです。そして気が付けば、日本企業の国際競争力はかえって強化され、70年代末には日本はアメリカに次ぐ世界第2に経済大国となっていたのです。
 1979年に発行され、一世を風靡したハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授著の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、この時代を象徴するものでした。本書は、いわゆる日本礼賛本にとどまらず、アメリカが日本から学ぶべきこと、学ぶべきではないことを具体的に紹介し、アメリカにとっての教訓で締めくくられていました。この本を契機に、世界における日本の評価は大いに高まり、いわゆる「日本的経営」が世界的に注目され、もてはやされることになったのです。
 1980年代に入ると、高品質、信頼性の高い日本の製造業製品が世界中の市場を席巻し、国際収支の大幅な黒字基調が定着していったのです。ここに、「ドル収入最大化」政策は大きく結実したと言えるでしょう。日本は世界最大の純債権国になり、わが国の株式に対する投資がブームが重なり、有り余るドルを持て余すという、想定外の時代を迎えたのです。その結果、80年代後半になると、銀行信用を通して巨大な「株価、地価バブル」を作り上げていったのです。
 このように1970-90年の20年間の環境変化を念頭において、前回掲載したわが国大企業の収益性の推移をみると、非常に興味深い事実が分かります。それは、日本のマクロ経済及び日本的経営の黄金時代を通して、売上利益率もROEも、一貫して低下を続けていたことです。つまり日本の輝かしいマクロ的成功は、それを支えたミクロ主体である企業の収益性を犠牲にした経営と裏腹であったことを意味しています。戦後の「チープ・レイバー」が1970年ごろに比較優位性を亡くした後、「低い資本コスト」、「収益性ダンピング」が新しい国際競争の武器として、急速に重要性を高めていったのです。
 そこで次回は、「低収益性」を国際競争の武器にすることの意味を、掘り下げて考えてみたいと思います。」」

 
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