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主要な価値創造モデルとその評価(73):戦後日本のドル収入最大化モデルー19

 前回は、戦後日本が非常に低い預金準備率を駆使して、銀行の重要産業、企業に対する信用供給を最大限おこなってきたことを紹介しました。もちろん、預金準備率の逆数倍まで信用創造が可能というのは理論上の上限で、実際にはそのかなり手前で、銀行の与信活動はコントロールされていました。その中心的手段として重要だったのが、今では死語になった、しかし当時は「泣く子も黙る」、日銀の「窓口指導」ないしは「窓口規制」でした。日銀は「超信用創造メカニズム」の暴走を防ぐために、主要な金融機関ごとに、貸出残高の前年同月比増加率の上限を、毎月きめ細かく管理していたのです。
 このように、実際の銀行の対企業向け与信活動は、預金準備率に基づく理論的上限よりはかなり控えめなものではありました。それでも本源的預金の短期的な変動が銀行信用全体に与える影響は大きかったのです。そこで日銀は、預金者の短期的な気まぐれから金融システムの安定性を守るために、大手銀行が準備資産(現金および日銀預け金)の不足をきたす時は、最優遇レートである公定歩合で対銀行貸し付けを行ってきたのです。銀行の準備資産を上回る日銀貸し出しは「オーバーローン」と呼ばれ、高度成長華やかな時代には、その状態が慢性化していたのです。日銀理事でエコノミストとして知られた鈴木淑夫氏は、戦後日本の金融システムの4大特色の一つに、この「オーバーローン」を挙げ、先進国で唯一日本だけで、中央銀行が慢性的に対市中銀行に対して貸出超過状態にあったと指摘しています。
 ともあれ、第2次大戦後の乏しい資本蓄積の下で急速な復興と経済成長を目指した日本では、銀行信用を柱とする間接金融システムを選択したことは必然でした。しかし並外れて低い預金準備率を温存し続けたことは、やがて1980年代に入って銀行主導の未曽有の土地、金融バブルを招来する原因になり、1990年代には間接金融システム自体が、劇的な破たんを迎えることにつながっていったのです。」」
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