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主要な価値創造モデルとその評価(82):戦後日本のドル収入最大化モデルー28

 前回の続きです。額面発行時代に安定配当が額面の10%、50円額面銘柄なら年5円配当が基本とされた背景を考えてみたいと思います。それは株式資本の安定的提供者であった金融機関大株主が、増資に応じる条件として本業の実効運用利回りを下回らない配当利回りを必要としたことにありました。これは特に運用利回りで経営を問われた生保や信託銀行によって重視されました。当時これらの金融機関の運用の中心は中長期貸付であり、高度成長時代の実効貸付利回りは、10%前後になっていたと考えられました。このため、増資の際の払込金額に対する年利回りが10%あるいはそれ以上になることが、持続的に増資に応じるための最低条件だったのです。これらの機関投資家は、原則として市場で売買することによって値上がり益を実現することはしませんでしたから、配当金が利回りの主要な源泉だったのです。
 大株主としてのメインバンクは、信託や生保ほど運用資産の実効利回りを厳しく問われたわけではありませんが、投資額を簿価で認識し、それに対して安定的に10%、あるいはそれ以上の配当利回りが得られる仕組みは好都合でした。銀行は基本的に貸し付けという確定利付き債権での運用を本業としており、株式がハイリスク・ハイリターンのリスク証券ではなく、疑似確定利付き証券として位置づけられた方が、経営的に便利だったのです。
 これらの安定株主にとって、50円払込み、5円配当の株式の投資価値は、理論的にいくらと考えられたでしょうか。これは、財務理論で5円キャッシュフローの無限の流列を必要収益率、すなわち10%で割り引いた現在価値に相当します。5÷0.1、すなわち50円です。したがって、50円という額面が理論的な価値に相当したのです。
 しかし実際の株価は、おおむね100円台で形成されていました。これを考える上で重要なのが、当時の日本の株式保有構造と、流通市場形成でした。つまり株式の大半は市場で売買しない機関投資家によって保有され、その期待リターンは10%前後の「安定配当利回り」でした。一方、市場株価は主として短期のトレーディング動機の個人投資家だったのです。このシリーズの第71回で紹介したように、その当時銀行の定期預金や長期国債の利回りは、年率5-7%程度でした。機関投資家のように10%を安定的に得られる投資対象はありませんでした。つまり、当時の日本では、投資の期待リターンに関して、決して市場均衡水準が一律に決まるような状況ではなかったのです。
 そこで、説明のための単純化として、個人投資家の株式に対する期待利回りが5%だったと仮定しましょう。すると同じ50円払込み、5円の安定配当が期待できる株式の、理論価格はどうなるでしょうか。割引率が10%ではなく5%と低いわけですから、5÷0.05=100円となります。つまり同じ特性を持った投資対象が、機会リターンの低かった個人投資家にとっては、100円の価値を持っていたのです。そして額面と市場株価の差額は「含み益」と呼ばれました。市場株価がほとんど常に額面をかなり上回っており、増資に応じるごとに含み益が増えていくシステムは、銀行やほかの機関投資家にとっては、株式というリスク証券を抱える上でまことにありがたい状況だったのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(81):戦後日本のドル収入最大化モデルー27

 前回は、増資形態の株主割当て額面発行制度から、時価発行制度への移行が、戦後日本の企業金融面の最大の出来事だと指摘しました。それを端的に示すのが、下に示すように1970年代半ばから1990年ごろまでに起こった日本の株価水準の持続的な上昇でした。
     東証1部単純株価平均(円)
1950年   74.00  1980年   382.92
1955年  108.17  1985年   682.47
1960年  167.54  1990年  1577.50
1965年   99.56
1970年  181.58
1975年  268.95

 単純平均株価は、戦後1950年代から1970年ごろまでは、ほとんど100円台で非常に安定的に推移していました。それが75年には269円、80年には383円、1985年には682円へと上昇していったのです。そして80年代後半には、ご承知のように株価地価バブルの一環で、1000円を大きく超える超高水準に達したのです。これで明らかなように、わが国の株価形成は、1970年代に大きく評価尺度が変わったのです。それは一言でいえば、株式を疑似確定利付き商品の一種として評価する考え方から、欧米流の1株当たり利益の成長性を重視して、1株当たり予想利益×PERで評価する方式への移行だったのです。
 特に今から見て興味があるのは、なぜ戦後長らく我が国の平均株価が、100円台で推移していたかということではないでしょうか。それには当時の我が国の株式制度、間接金融制度の下での銀行や金融機関の政策保有制度などが絡んだ、それなりにもっともな時代的理屈があったのです。もっとも、こうした時代性は、たまたま私がアナリストとしてどっぷりその中に入っていたからわかることで、いわゆる学者や研究者の人達の間ではまったく理解されておらず、また日本的非合理的株価形成という一言で片づけられてきたものです。
 ここで申し訳ありませんが、ちょっと都合で打ち切ります。明日この続きを書く予定です。よろしく。」」

主要な価値創造モデルとその評価(80):戦後日本のドル収入最大化モデルー26

 前回は戦後日本の企業金融の基本であった株主割当て額面発行増資が、1970年代を通して次第に欧米型の時価発行増資に移行していったことを紹介しました。アメリカを中心とする世界の純投資機関投資家が、日本株に注目し始めたことが背景にありました。私は1965年に大学を卒業して野村証券に入社し、野村総合研究所のアナリストとして、この歴史的な移行過程をつぶさに観察し、考察する機会を与えられたのです。この辺変化こそ、戦後日本の企業金融における、最も重要な出来事だと考えています。
 優れて言霊信仰の国日本では、言葉を聞いて分かったつもりになることが多いのです。例えば株式と言えばハイリスク・ハイリターンの証券、債券と言えば元本安全の確定利付証券、といった具合です。しかし実際は、債券も株式も、オプションもシームレスにつながっており、またその金融的本質はそれらの特色を部分的にあわせ持っている、「複合証券」ないしは「ハイブリッド証券」であることが多いのです。
 例えば株式は、投資対象としてみた時、一種の「コール・オプション」なのです。通常の上場株式オプションは、一定の行使価格に対するプレミアムを払って購入し、満期日の株価が行使価格を上回っていれば権利を行使手差益を得、下回っていれば権利を放棄します。これに対して株式(普通株)をある株価で取得した場合、うまくいけば値上りして差益が得られますが、うまくいかなければ値下りして損失を出し、最悪の場合は企業が倒産して株券は無価値(株価ゼロ)になります。しかしそれ以上の損失を負うことはありません。このことから、普通株は企業資産や利益を原資産とし、行使株価ゼロ、期限なしのコール・オプションと考えることができるのです。そして投資時の株価がオプション価格に相当します。
 また、優良大企業のほとんどは、どんな難局でも何がしかの配当を払い、また安定保有すれば利益の趨勢を反映して配当は増加トレンドをたどるものです。あのウォーレン・バフェットは、ROEが高く、趨勢として配当が増え続ける優良大企業の普通株を、利札(クーポン)が成長するタイプの債券と考え、「エクイティー・ボンド:株式的債券」と呼んでいます。つまり、業績が安定している優良大企業の普通株は、価値が成長するタイプの「疑似債券」という訳です。
 銀行や生命保険会社による政策的安定保有が中心で、安定配当と株主割り当て額面発行増資を原則とする当時の日本株は、普通株というよりは常に50円で追加に株式を購入できる「株主優先購入権」という一種のコール・オプションのついた、疑似確定利付証券というべきものでした。私が「疑似」と呼ぶのは、安定配当が社債や優先株のように、金融契約として正式に保証されたものではなく、単に慣行として定着していたものだったためです。
 また、額面で株式を購入できる権利は、通常のコール・オプションと異なり、将来何回も行使できるものでした。したがって、その権利が価値を持ったのは、主として長期安定保有を前提に株式を保有していた銀行や保険会社だったわけです。次回は、株式額面発行時代の株価形成が、どのような理屈で行われていたのかについて解説したいと思います。」」

主要な価値創造モデルとその評価(79):戦後日本のドル収入最大化モデルー25

 皆さん新年おめでとうございます。このブログを始めてから5年目に入りました。今年も週1回のペースで書き続けたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。今回は、1970年代の前半はわが国大企業のROEが二桁台にあり、アメリカよりも高かったことの背景です。
 当時はメインバンク=大株主を柱にした、間接金融主流の時代でした。銀行やほかの金融機関による株式の政策的安定保有制度を維持する手段として、増資は原則既存株主割り当ての額面発行が義務付けられ、1株当りまた5円を標準とする「安定配当政策」が定着していました。そうした中で重視されたのが、「払込み資本金(税引)利益率」という指標でした。当時「増資減配」は忌み嫌われましたから、近い将来増資による株式資本の調達を行うには、半額増資の場合必要な「資本金利益率」は少なくとも15%以上、倍額増資なら20%以上になりました。実効税率は50%程度と考えられていましたから、税前では30ないし40%もの資本利益率が要求されたのです。増資による株式資本の調達が負債に比べて格段にコストの高い資金調達であることは、当時の経営者は全員骨身にしみて認識していたのです。
 そこで、高度成長華やかだった1966年から75年までの10年間について、日本政策投資銀行の財務データに基づいて、自己(株主)資本利益率(ROE)、資本金利益率、自己資本比率、自己資本に占める資本金の割合の推移を見たのが、下の表です。
  1966-75年の日本企業の主要な財務比率(%)
      ROE  資本金   自己資本  資本金の
           利益率   比率     割合
1966   8.9   12.7    24.1     0.70
1967  10.6   15.9    22.5     0.67
1968  11.7   18.5    21.6     0.63
1969  12.9   21.3    20.2     0.60
1970  13.1   23.2    19.7     0.56
1971   9.8   17.5    18.8     0.56
1972  10.4   18.9    18.6     0.55
1973  12.4   23.6    16.9     0.52
1974   8.9   17.3    16.5     0.52
1975   6.1   11.4    16.1     0.53
10年間 
 平均 10.5   18.8     19.5    0.58
(出所)日本政策投資銀行
 まずROEの推移を見ましょう。ROEはこの10年間6.1%から13.1%の範囲にあり、平均は10.5%と、ふた桁でした。最近の水準よりかなり高いものです。次に資本金利益率を見ると、一貫して二桁台にありました。低い年でも11.4%、高い年は23%台にありました。平均は18%で、上に示した半額増資可能水準と倍額増資可能水準の中間になっていました。
 次に自己資本比率を見ると、1966年の24.1%から75年の16.1%へと、一貫して下がり続けました。 66年の水準でも決して高くはなかったのですが、20%を切ってからはいくら間接金融万能の当時でも、危機的な低水準だと受け止められていました。最後に、自己資本に占める資本金の比率を見ると、1965年には実の0.7に達していました。自己資本の大きな部分が資本金で占められ、資本剰余金や内部留保利益はほとんどなかったのです。その割合はこの10年間で徐々に高まり、75年で見ると約半分の、0.53に低下していました。つまり、ROEは資本金利益率の約半分の水準になっていたわけです。
 これでわかるように、当時高いように見えた日本のROE水準は、既存株主割り当て額面発行増資、安定配当制度を義務付けた結果だったのです。ちなみに、2011年のわが国大企業の平均ROEは4.1%という低水準でしたが、自己資本比率は42.7%とアメリカ並みに高まっています。したがって、もし自己資本比率は1975年当時のように16.1%だったとすると、ROEは約10%に相当した訳です。
 ともあれ、当時の株式資本調達コストは非常に高いものでした。したがって、企業経営者の間にはアメリカ型の株式時価発行制度待望論が強くありました。そして70年代に入ると、スーパーマーケットなどの新しい業界を中心に、株式時価発行形式による資本調達を始めるところが出てきました。その動きは従来額面発行を強いられてきた製造業大企業にも瞬く間に広がり、1980年ごろまでには増資は基本的に時価発行という状態が定着したのです。」」

主要な価値創造モデルとその評価(78):戦後日本のドル収入最大化モデルー24

 今年も今日でおしまいです。今日の分を含めるとこの1年で55回ほど記事を書くことができました。何とか「平均毎週1回」という目標が達成できました。
 このシリーズの21回目に、1970年から1990年までの日米大企業の収益性の比較表を掲載しました。その時示した二つの収益性指標の内、今回は日本のROEの推移についてコメントします。1970年には14.9%もあったROEですが、その後は売上利益率と同様に、ほぼ一貫して低下を続けました。ただ、売上利益率と異なり、1970年代の半ばまで日本企業のROEは二桁台の高さにあり、74年まではアメリカを上回っていた点が、売上利益率と異なります。
 長年ROE最貧国と言われてきた日本ですが、この表を見た読者の多くは、日本企業も当時は株主価値を重視した経営を行っていたのだと思うかもしれません。そうではありません。高かったROEは、日本企業が戦後一貫して行ってきた低収益経営を金融的に支えた間接金融制度、メインバンク=大株主と金融機関による株式の政策的安定保有、それと裏腹だった額面発行増資、安定配当制度がもたらしたものなのです。
 今では死語に近い額面発行増資ですが、1970年代初めまでは株式資金調達の90%前後が、株主割り当て、額面発行増資によって調達されていました。そして、額面発行と不可分の関係にあったのが、額面あたり一定率の配当、つまり固定的な1株当り配当主義でした。当時の優良大企業に期待された財務政策は、額面に対して10%、50円額面企業の場合1株当り5円配当を安定的に続けることでした。鉄鋼、電力、大手銀行をはじめ、日本の多くの企業は額面50円、配当率10%、1株当たり5円配当を原則としていました。業績が悪化した局面では一時的に6-8%程度への減配もやむを得ないとされましたが、業績が回復次第速やかに10%に戻すことが強く要請されていました。もちろん中には10%以上の高率配当を行う企業もありましたが、大部分の大企業は8ないし10%の配当率を安定的に維持していました。
 額面増資時代は安定配当政策が強く要請されましたから、増資が可能かどうかは増資後に従来通りの配当を続けるだけの利益が見込めるかどうかに大きく依存していました。配当は原則として当期税引き利益の範囲で行われますから、増資後も現行の1株当り配当金を支払うだけの税引き利益を上げられなければ、増資は困難でした。したがって当時は「平均払い込み資本金税引き利益率」が、株価形成上非常に重要視されたのです。10%配当を前提に考えると、半額増資なら資本金利益率が15%以上、倍額増資なら20%以上に高まるという確信がない限り、困難でした。もっとも忌み嫌われたのは、増資した結果配当の原資になる税引き利益が十分増えず、結果的に減配しなければならなくなる、「増資減配」と呼ばれる事態でした。
 このように、当時の制度の下では、株式資本は疑いもなく非常にコストの高い資金調達手段でした。仮に配当率を10%とすると、増資による手取り金の資本コストは少なくとも税引き後10%になり、実効税率を50%とすると、税引き前では20%以上にもなったのです。低収益経営の下では、資金需要の大半はコストの安い負債で賄い、増資な極力回避するというのが常識でした。この結果、日本の大企業の自己資本比率は一貫して低下を続け、70年代初めには20%を切る状態でした。これを見た欧米の専門家は、「日本の大企業の多くは、明日に倒産してもおかしくないほど借金過多だ」と指摘していました。」」


主要な価値創造モデルとその評価(78):戦後日本のドル収入最大化モデルー24

 今回は、前回のテーマ「GDP-GNPモデル」の補足です。前シリーズの中では、経済構造の変化に対応して、推計方法が常時見直されていることを紹介しました。わが国では内閣府が中心になって最近の国連の基準を取り入れ、過去の実績値の見直し作業が行われていました。そしてこのほど、新しい推計値が発表されました。12月9日付の日本経済新聞紙の記事を中心に、その概要を紹介しておきましょう。
 まず、2015年度のGDPの確報値の、上方修正です。企業の研究開発費を国連の推計基準に従って正式にGDP に加算したことが大きく貢献して、GDPは改定前の500.6兆円から532.2兆円へと、大きく増えたのです。この結果、同年の名目成長率は2.8%に高まりました。
 これまでは単なる経費として扱われていた研究開発費が、「投資」に加えられることになった結果です。これを反映して、企業の設備投資が19.2兆円増えたのです。これについて内閣府では、「研究開発費は企業の新製品開発に貢献しており、失敗も含めて広い意味で製品化に貢献している」と言っています。そのほかで上方改定に貢献したものとして、特許使用料3.1兆円増、防衛装備品0.6兆円増、不動産仲介手数料0.9兆円増、それに最新の経済統計を反映した増加分7.5兆円などとなっています。防衛装備品は従来はGDPの対象外にされていましたが、今回から含まれるようになったものです。
 また、消費税引き上げの行われた2014年度の実質成長率も、0.9%のマイナスから0.4%のマイナスに「上方」改定されました。消費税引き上げの景気への影響は、言われていたほどには大きくなかったわけです。
 阿部首相はかねてから、名目GDPの600兆円への増加を、長期的な経済政策の大きな目標に掲げてきました。今回のGDP上方改定によって、その実現が射程距離に入ってきたようです。ニッセイ基礎研究所の斎藤太郎氏によると、「1.6%の成長なら23年度には600兆円に届き、荒唐無稽な目標ではなくなった」と言っています。
 また、今のシリーズの第7回で、最近日銀の研究者が新しい経済データに基づいて、内閣府よりかなり高めのGDP推計を公表して注目されたことを紹介しました。とりわけ消費関連のデータの捕捉が不十分ではないかとの批判が出ていました。内閣府ではこうした指摘をも参考にして、GDP推計手法の改善策を模索してきました。この作業が最近まとまり、12月13日に主な改善点が公表されました。12月14日の日本経済新聞紙によると、その結果は次の通りです。

          内閣府の案が示した統計改善の例

  統  計           内容(実施時期)
家計調査       オンライン家計簿導入(2018年1月)
法人企業統計    会計ソフトと連動、公表早期化(19年度)
建築物リフォーム・
 リニューアル調査 四半期ごとに調査、GDPに反映(16年度)
訪日外国人消費 
 動向調査      調査規模を2倍に拡大(16年度から予備調査)
消費者物価指数  ネット通販価格の把握(18年度までに結論)
 (出所)日本経済新聞2016年12月14日朝刊            」」

主要な価値創造モデルとその評価(77):戦後日本のドル収入最大化モデルー23

 前回は、日本は企業収益の犠牲のもとにマクロ的な成功を収めたことを指摘しました。今回は、それを念頭において、第21回の中で掲載した売上利益率とROEの推移を、具体的に見て見ましょう。
 まず、売上営業利益率、すなわち本業の採算性の推移を見ましょう。1970年の日本の数値は、5.4%でした。同じ年のアメリカの数値は9.4%でしたから、日本はアメリカの約6割に過ぎなかったのです。しかし問題はその後です。
 日本が経済大国として台頭した1970年から90年にかけて、売上利益率は一貫して低下を続けたのです。1990年には70年の水準からさらに40%も低下して、たったの3.3%に落ち込んでしまいました。これは税引き利益率ではなくて、営業利益率なんですよ。一方アメリカを見るとこの比率は10%前後で非常に安定しており、90年の実績は9.5%でした。収益性重視の経営姿勢が背景になっています。つまり日本経済の黄金期を経て、日本の大企業の収益性は、アメリカの3分の1になってしまったのです。
 次に、株主の持ち分の収益性を直接反映する、ROEを見て見ましょう。ROEは1株当たり税引き利益を平均株式資本残高で割って求めます。したがって、売上営業利益率のほかに様々な要因が影響します。一つは、営業利益の後で考慮される受取利息配当金などの営業外収益や支払金利などの営業外費用、それに特別損益を加えた税引前利益に対する税金などです。それらを控除した残りが税引き利益です。したがって営業利益と税引き利益は必ずしも同じ動きをするとは限りません。それに通常は金利や税金を差引きますので、税引き利益は営業利益よりもかなり小さな値になります。
 一方分母の平均株式資本残高も、業績以外に増資や減資、増資が時価発行か額面発行か、内部留保額の変動、それに負債自己資本比率の変化などの影響を受けます。実際この20年の間にわが国では額面発行中心の時代から時価発行中心へと大きく変わりました。その結果、総資本に占める株式資本の比率は、大きく高まりました。したがって、売上利益率が不変なら、ROEは大きく低下したことになります。
 これらを念頭においてROEの推移をみると、いくつかの傾向が指摘できます。第1は、1970年代の前半までは、わが国の平均ROEはふた桁の高水準だったことです。実際、第1次オイル危機以前の1973年までは、わが国の平均ROEはアメリカを上回ってさえいたのです。日本は「ROE最貧国」と呼ばれてきましたが、ちょっと意外かもしれません。これには実は特殊日本的な資本制度が深くかかわっています。この問題は次回に詳しく解説する予定です。
 第2は、第1次オイル危機の結果わが国企業の業績は大きな打撃を受け、1974年以降ROEは低下し始めました。79-80年に一時持ち直したものの、80年代前半は1ケタ台の高い所、そしてバブルが膨らんだ後半6-8%台に低下してしまいました。一方アメリカの平均ROEはというと、70年代が進むにつれて高まりました。80年代の前半は低迷しましたが、後半は15-19%へと、大きく上昇しました。この結果、やはり80年代末には、日本の平均ROEもアメリカの4-5割の水準に低下してしまったのです。このように、この20年間の平均ROEは、一言で言うと、日本が低下トレンド、アメリカが上昇トレンドをたどる形になりました。」」

主要な価値創造モデルとその評価(76):戦後日本のドル収入最大化モデルー22

 わが国の戦後復興と高度成長を支えたのは、安価で豊富な労働力と1ドル=360円の安定的なブレトンウッズ体制でした。このうち労働コスト面の優位性は、1970年ごろには消失しました。しかし前回示した企業の収益性推移の対象に取った1070年から90年にかけての20年は、わが国のマクロ経済ならびに日本企業の経営に関して黄金期と言える20年間だったのです。そこでこの20年間がどのような時代だったのかを、簡単にレビューしましょう。
 まず、第2次大戦の覇者として世界の政治、経済をリードしたアメリカの地位の低下です。戦後極めて順調に成長してきたアメリカ経済が、1960年代後半に変調をきたし始めます。ケネディー大統領の下で自信に満ち溢れて始まった1960年代のアメリカですが、彼が暗殺されその後を継いだジョンソン大統領の下で、ベトナム戦争が泥沼化していきました。一方では、「大砲もバターも」というモットーの下で、福祉政策にも積極的に取り組んだのです。この結果、アメリカの財政収支、国際収支共に急速に悪化して、今日まで続く慢性的な赤字体質が定着しました。経済は過熱し、完全雇用状態の下で、インフレ、高金利が深刻になっていきました。
 ジョンソンのあと大統領になったのは、共和党のニクソンでした。国際収支の悪化を反映してドルの基軸通貨としての信認が揺らぎ始め、ニクソンはついに1971年に金とドルの兌換の約束を放棄したのです。これによって戦後の安定的な国際金融体制を支えた固定相場制の土台が崩れ、1972年には全面的な変動相場制に移行していったのです。
 こうして幕を開けた「激動の70年代」ですが、ついでイランにおける宗教革命に伴って、73年と78年に世界的な「石油危機」が勃発しました。イランを含む中東の石油にエネルギー源の大半を依存していた我が国の経済は大打撃を受け、経済も企業経営も大混乱に陥ったのです。エネルギー価格は高騰し、諸物資は払底し、激しい物価変動や金利の高騰に見舞われました。
 しかし日本は官民一体になってこれらの国難に耐え、艱難辛苦を重ねて、何とか乗り切ったのです。そして気が付けば、日本企業の国際競争力はかえって強化され、70年代末には日本はアメリカに次ぐ世界第2に経済大国となっていたのです。
 1979年に発行され、一世を風靡したハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授著の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、この時代を象徴するものでした。本書は、いわゆる日本礼賛本にとどまらず、アメリカが日本から学ぶべきこと、学ぶべきではないことを具体的に紹介し、アメリカにとっての教訓で締めくくられていました。この本を契機に、世界における日本の評価は大いに高まり、いわゆる「日本的経営」が世界的に注目され、もてはやされることになったのです。
 1980年代に入ると、高品質、信頼性の高い日本の製造業製品が世界中の市場を席巻し、国際収支の大幅な黒字基調が定着していったのです。ここに、「ドル収入最大化」政策は大きく結実したと言えるでしょう。日本は世界最大の純債権国になり、わが国の株式に対する投資がブームが重なり、有り余るドルを持て余すという、想定外の時代を迎えたのです。その結果、80年代後半になると、銀行信用を通して巨大な「株価、地価バブル」を作り上げていったのです。
 このように1970-90年の20年間の環境変化を念頭において、前回掲載したわが国大企業の収益性の推移をみると、非常に興味深い事実が分かります。それは、日本のマクロ経済及び日本的経営の黄金時代を通して、売上利益率もROEも、一貫して低下を続けていたことです。つまり日本の輝かしいマクロ的成功は、それを支えたミクロ主体である企業の収益性を犠牲にした経営と裏腹であったことを意味しています。戦後の「チープ・レイバー」が1970年ごろに比較優位性を亡くした後、「低い資本コスト」、「収益性ダンピング」が新しい国際競争の武器として、急速に重要性を高めていったのです。
 そこで次回は、「低収益性」を国際競争の武器にすることの意味を、掘り下げて考えてみたいと思います。」」

 

主要な価値創造モデルとその評価(75):戦後日本のドル収入最大化モデルー21

 日本企業の収益性は、労働生産性の低さと軌を一にして、戦後一貫して目立って低かったことは、このシリーズの第1回目に指摘した通りです。経済学で言う「資本コスト」という概念は、市場(投資家)が求める必要(最低)収益率を意味し、金融、資本市場で成立する金利や株価に反映されるものです。負債についていえばTBやCD,コマーシャルペーパー、国債、社債などの市場価格から逆算される利回りを指します。そして株式に関しては、いわゆる「効率的」市場で形成される株価を、銘柄Aの将来にわたる1株当たり予想配当の流列の「割引現在価値」合計に等しくするような「割引率」を、「株式資本コスト」と定義します。それを与えてくれる理論モデルが、いわゆるCAPMです。無リスク金利をrf、株式市場に対する期待収益率をRm、銘柄Aのベータ値をβAで示せば、Aの株式資本コスト=rf +(Rm-rf)×βAで推計されるのです。
 しかし上で示すような、市場価格ベースの経済学的な資本コストは、我々にはちょっと抽象的過ぎます。そこで市場価格ベースではなく、財務会計ベースの収益性指標を用いて、資本コストの問題を考えてみたいと思います。例えば、例の「伊藤レポート」で示された、「ROE=8% が日本企業の株式資本コストだ」という考え方がそれです。収益性を測る会計指標としてよく用いられる指標には、売上利益率、総資本利益率(ROA),株式資本利益率(ROE)などがあります。また、これらの収益性指標の過去の実績値は、必ずしも必要収益率そのものではありません。仮に資本コストと呼べる収益率があるとしても、実績値、あるいはその平均値はそれを上回ることもあれば下回ることもあるわけです。あくまでもトレンドや傾向を見るための一つの参考データに過ぎません。こうしたことを承知の上で、代表的な会計上の収益性指標を用いて、1970年以降のわが国製造業大企業の収益性のトレンドを、アメリカとの対比で見て見たのが、下の表です。日本は野村総合研究所集計の350社、アメリカはS&P社集計の製造業大企業です。


日米製造業大企業の収益性比較(%)

        日     本      ア メ リ カ
      売上営業 株式資本  売上営業 株式資本
      利益率   利益率   利益率   利益率
1970    5.4     14.9     9.4    10.3
1971    4.6     11.2     10.0   10.8
1972    4.8     12.0     10.6   11.7
1973    5.0     14.4     11.7   14.2
1974    4.2     10.0     11.6   14.2
1975    3.3     7.9      10.4   12.1
1976    3.8     9.7      10.7   14.0
1977    3.3     9.3      10.6   13.9
1978    3.6     9.9      10.6   14.6
1979    4.2     12.3     10.7   16.5
1980    4.0     11.7      9.4   14.9
1981    3.6      9.4     8.9    14.4
1982    3.2      8.9     8.2    11.1
1983    3.1      8.3     9.0    12.1
1984    3.4     9.0      9.3    14.6
1985    3.0     8.3      8.8    12.1
1986    2.4     6.0      8.2    11.6
1987    2.9     6.7      9.0    15.1
1988    3.5     7.9     10.4    19.1
1989    3.3     8.1     10.2    18.5
1990    3.3     7.7      9.5    16.1

 次回は、この表から指摘できるいくつかの傾向について考えてみたいと思います。」」       

主要な価値創造モデルとその評価(74):戦後日本のドル収入最大化モデルー20

 前回から少し間が開いてしまいましたが、戦後日本のドル収入最大化モデルを続けます。日本は太平洋戦争に敗れたとはいえ、当時5大工業国の一つでした。したがって、戦後開かれた国際市場が出現した時、日本は産業知識、生産技術および労働の質的レベルにおいて、アメリカをはじめとする一部の先進工業国としか競合しない、ハイエンドな工業セグメントで勝負することができたのです。そして、戦争前には1ドル=4円だった為替レートが、ブレトンウッヅ体制の下では安定的に1ドル=360円に固定されたことによって、日本の戦後復興と高度成長がほぼ約束されたのです。というのも、このレートの下では、欧米先進国と同様な工業製品を、アメリカの約4分の1の労働コストで生産できたからす。
 もっとも、戦後しばらくは安価で良質な労働力ですぐに参入できる軽工業、繊維工業、玩具などの製品が、ドル獲得の柱でした。しかし、戦後インフレの下で日本人の賃金水準は年々上昇し、比較的付加価値の少ない上記の産業分野の比較優位は次第に失われて行きました。そこで、このシリーズの第13回で紹介したように、通産省主導の下で、わが国産業の重化学工業への大々的シフトが行われたのです。
 その中で引用した当時の通産次官だった大慈弥氏の言葉で言えば、「安い労働力の代わりに、資本と技術を集約した重工業、例えば鉄鋼、石油精製、石油化学、自動車、飛行機、工作機械、コンピュータを含めたエレクトロニクスなどを盛んにしようと決めた」のでした。これらの分野は世界レベルで持続的に需要の拡大が見込まれ、そこで顧客を開拓して、マーケットシェアの維持、拡大に成功すれば、持続的に輸出が拡大し、ドル獲得が約束されたわけです。そのための合言葉が、「いいものを、安く、大量に」でした。開かれた市場では、競争相手国よりもより「品質やサービスのいいものを」、「より安い値段で」提供すれば、日本製品は必ず大量に売れて、重点投入したドルを大きく上回るドルが獲得できたのです。
 1ドル=360円の下では、世界中から必要な原材料を輸入し、高いロイヤルティーを払って先進技術を導入しても、勤勉で優秀と言われた日本の技術者や労働者を動員して価値を加え、安価に輸出しても何とか利益を出して拡大再生産を続けることができたのです。
 こうして日本は世界に冠たる高度成長を実現したわけですが、日本がIMF8条国に移行した1970年代の初めには、良質で安価な労働力の比較優位性は、ほぼ消滅したのです。そこで労働コストに代わって国際競争の強力な武器になったのが、日本的経営の柱ともいうべき「低収益経営」でした。大企業が持続的に資本や原材料を調達し、優秀な人材を雇用し続けることができるために、必要とされる資本収益率のことを、専門的には「資本コスト」と言います。その資本コストが競争相手よりも低ければ、それだけ売値を引き下げ、あるいは品質やサービス向上のために追加のコストをかける余地が広がります。それによって、引き続き「良い物を、安く、大量に」輸出する戦略を続けることが可能になったのです。」」
 

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